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繁昌亭落語家入門講座に通いだして、落語にはまったったった
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 先日、「好知」で検索して来られた方がいらっしゃいました。
 改めて、これまでの歴史上の人物などで、同じ名の方がいらっしゃらないか、調べました。
 簡単な検索ですが、2名いらっしゃいました。

   前田 知好氏・・・・安土桃山時代
   永原 好知氏・・・・江戸幕末期

 時代とはいえ、若くして亡くなっていらっしゃいます。

◆前田 知好 まえだ ともよし
前田 知好(まえだ ともよし、天正18年12月8日(1591年1月3日) - 寛永5年6月23日(1628年7月24日))は江戸時代の武将、前田利家の三男。母は利家側室の在(金晴院)。初名は利包。その後、知好と改名。通称は三九郎、修理。出家後は、有庵と号す。子女は前田好次、前田知辰、前田辰正。

兄利長の命によって慶長2年(1597年)に出家し、石動山合戦後天平寺に入り、伽那院と号して別当職となり、同9年(1604年)還俗。同15年(1610年)伯父の前田安勝の子前田利好が没すると、無嗣のため名跡を継いで、1万3750石を知行して七尾小丸山城主(七尾城代)となった。そして、大坂の役に従軍する。元和2年(1616年)、前田利常が兄の前田利長の遺言を守らず、優遇されなかったことを憂い、剃髪し有庵と号し、京の鞍馬山真勝院に隠棲した。寛永4年(1627年)4月、近江国宗沢寺に移る。寛永5年(1628年)、利常は知好を説得するための使者として前田利孝を派遣、知好も利常の意向を了承して金沢に向かったが、近江国の道中で病となり、引き返して没する。享年39。法名、大巖院殿有庵宗無大居士。

なお、小丸山城は、一国一城令により廃城。城代の仕事は、小丸山地内に設けられた七尾町奉行に引き継がれた。
[Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%9F%A5%E5%A5%BD より引用]

◆永原好知【ながはら-よしとも】
1833-1864幕末の武士。
天保(てんぽう)4年生まれ。加賀金沢藩士。嘉永(かえい)4年世子前田慶寧(よしやす)の側小姓(そばこしょう)となり,書物・書写奉行,高岡町奉行。勤王をとなえ,幕府からの慶寧への江戸出府命令をことわらせ,京都入りを進言して長州攻めに反対した。元治(げんじ)元年4月24日死去。32歳。通称は恒太郎。
[kotobank http://kotobank.jp/word/%E6%B0%B8%E5%8E%9F%E5%A5%BD%E7%9F%A5 より引用]
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